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他人との比較の底にあるもの

他人との比較の底にあるもの
Photo by charlesdeluvio / Unsplash

だいぶサボってしまったから記憶を辿りながら日記を書いている。別に誰に約束しているわけでもないのだが、自分で書こうと決めたことが止まっていること自体が気持ち悪いのだ。だから無理してでも遡って書く。

この日は、久しぶりの知人と、経営に関する相談をした。まったく異なる切り口ながらも、自分のつくっているサービスと同じような考え方・ベネフィットを訴求しているサービスを教えてくれた。最近「関係性」というキーワードを強めてサービス開発しているが、このフレーズから想起してくれたのだと思う。同サービスの訴求を見ると、性的な表現や、宗教に関する表現も、分け隔てなくなされていて、海外のサービスはこういったところはストレートだなと感じた。

12月に研修講師をおこなう予定の知人の会社との打ち合わせ。良い事例をつくり出して、次に繋げたい。

夕方は、地域で社団法人を幾つも運営している経営者との面談。想いの強い人と話していると、自己評価が起こる自分が居る。そこにあるのは、比較だったりするが、健全な比較というよりは、相手の方が優秀に見えるという劣等感だ。

日が空いた状態で書き始めた日記も、こうして書くと、当時の感情が薄れていてあまりおもしろくないなと思い始めていたが、自分の劣等感からくる自己評価は健全なのだろうかという問いを立てることができ、やはり、言語化の機会をもつことには意味があると思えた。

人間それぞれ目的が違う。彼には彼の目的があり、趣味嗜好があり、そのための活動を起こしているだけだ。劣等感を抱く必要はないが、あえて言えば、自分の活動量に対する、自分自身に対する不満があるのだ。これは、自分がやり切っているという自覚を持っていないために抱かれる劣等感だ。積み重ねの先に、差は生まれて当たり前。自分は自分で、着実に活動を重ねている。他の誰かから見れば、まったく違う場所にいる。目に見えない、過去の活動量の積み重ねに後悔するのではなく、今、ここに集中し、今日もやりきれば良い。